
東京都港区に位置するエリア。
麻布周辺には貝塚などが見られ縄文時代から人間が住んでいたとされる。
麻布十番、麻布台、麻布永坂町(あざぶながさかちょう)、麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう)、西麻布、東麻布、南麻布、元麻布の8つの町名から成る。
麻布のルーツ
地名の由来には、文字通り「麻(あさ)」が深く関わっており、かつてこの地は、植物の「麻」を育てるのに適した場所であり、それを織って「布」を作っていたことからその名がつけられた。
麻の栽培が盛んだった
江戸時代よりもはるか昔、このあたりには麻が一面に植えられていた。
収穫した麻を加工し、布にしてこの地の草むらや崖に干していた様子から、「麻を布(し)く」→「麻布(あざぶ)」になった、という説が最も有力である。
古い記録では「阿佐布」や「安座部」と書かれていた時期もあったが、徳川家光の時代(1623年〜1651年)に「麻布」の字に改められ、後に定着していったという。
実際の麻の主な用途
古代から江戸時代にかけて、麻は木綿が普及する以前の重要な繊維だった。
主な用途は、衣服、下着、作業着、漁網、縄、袋、幕、神事用品(仏具)、軍需品、納税用の布(租税として納める布)など幅広く使用されたことが確認されている。
🤔ネットやSNSで見かける一説について
「麻布で作られた麻布(あさぬの)で遺体や死体を包んでいた」
という説を見かけることがある。
しかし、その多くは出典となる一次史料が示されていなかったり、伝承・俗説として紹介されているもので、インパクトの強い都市伝説として拡散されたものと見られる。
実際にそのような用途にも使われることもあったが、数ある用途の一つと考えるのが自然であろう。
多摩川との意外な関係
麻布で「布」を作っていた背景には、東京都西部を流れる多摩川が関係しているという説もある。
租庸調(昔の税金)として納めるための布を、多摩川の清流でさらした後、この麻布の丘の上で干していたという話が残っている。
「阿左布(あざぶ)」という地名
江戸時代の初期までは、公式な文書でも「阿左布」と表記されることがあった。当時の江戸っ子たちの間では、すでに今と同じ発音で親しまれていた。
現代の麻布と歴史
今の麻布は、各国の大使館や高級住宅街が集まり、「麻布十番」のような繁華街、
「古川橋」、「新一の橋」、「一の橋」から「四の橋」周辺のような風情のある場所などが入り混じった街並みであるが、地名に「布」という字が入っていることで、かつての素朴な手仕事の風景がうっすらとうかがえる。
トリビア
「麻布十番」
麻布という広いエリアの中で「十番」だけが番号で呼ばれるのは江戸時代の古川の改修工事(あるいは河川の警備)において、「第10番目の工区(または組)」が担当したエリアだったから、という説が有名で実は実務的な名前だったという。
「一の橋」
江戸時代、一の橋は「江戸の町」と「武家屋敷や寺院が集まるエリア(麻布)」を分ける重要なゲート(境界)でもあった。
- 立地: 橋の北側(飯倉側)は商人が住む町屋が広がり、南側(十番側)には多くの寺院や大名屋敷が立ち並んでいた。
- 交通の要所: 昭和から現代にかけても、ここは都電の拠点であり、現在は「一の橋ジャンクション(首都高速)」がある交通の結節点となっている。
現在の「一の橋」は、首都高速の巨大な高架下に飲み込まれるような形になっているが、橋の袂には今も親柱が残り、かつての川の情緒を伝えている。
「古川橋」
渋谷区内の宮益橋から天現寺橋間の2.6kmを渋谷川、港区内の天現寺橋から河口間の4.4kmを古川と呼んでいる。四の橋からさらに下流(三田・芝方面)へ行くと、次は「古川橋(ふるかわばし)」という名前の橋になり、三の橋→二の橋→一の橋となる。
その他にも・・・
麻布エリアには他にも「狸穴(まみあな)」や「我善坊(がぜんぼう)」など、一風変わった由来の地名が多い。また、古くからある「坂」についてもその由来や歴史を取り上げたいと考えている。

